日本研究の過去、現在そして未来へ
アメリカ∙カナダ大学連合日本研究センター (IUC) からの展望

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2022年7月6日、本センターのエグゼクティブ・ディレクターであるインドラ・リービ准教授(スタンフォード大学)が、早稲田大学にて「日本研究の過去、現在そして未来へ——アメリカ∙カナダ大学連合日本研究センター(IUC)からの展望——」と題する講演を行いました。このページにその内容を掲載します。米国における日本研究の歴史と、その発展のために本センターが果たしてきた役割を跡づける内容となっています。

以下、各章の太字のタイトルをクリックしてお読みください。

*画像の転載は固くお断りいたします。あしからずご了承ください。

私と日本語、私とIUC

こんにちは。ただいまご紹介にあずかりましたインドラ∙リービです。こうして皆様の前でお話しをさせていただくのは大変うれしく、光栄に存じます。十重田先生をはじめ、この機会を作ってくださった早稲田大学国際日本学拠点の方々、早稲田大学国際文学館、早稲田大学総合人文科学研究センター角田柳作記念国際日本学研究所、柳井正イニシアティブにひとまずお礼を申し上げたいと思います。

コロナ禍が長く尾を引いてしまったため、こういう形で皆様とお話しできるのはなおさら嬉しく、また緊張の種でもあります。言葉は人々を結ぶ貴重な媒介でありながら、人々を隔てる壁にもなりかねません。その中で日本語は特に、勉強するものにとってはそびえ立つ高い壁のように見えますが、努力して乗り越える甲斐もあります。

私の場合、高校3年の夏休みに初めて日本語の勉強に挑戦して、失敗に終わりましたが、大学に入ってからもう一度やり直して、この時は基本文法ぐらいはなんとか身につけることができました。それから大学院に入って、近代日本文学を専攻にしながら古語や王朝女流文学の世界にも没頭すると、ますます日本語の魅力に惹きつけられるようになりました。院生時代は、日本語がいろいろな形で夢にまで現れました。たとえば美しい女手のひらがなが天から雨のように降ってきたり、ニューヨークの街のローマ字看板がいきなり漢字に変貌したり、その頃は面白い夢をたくさんみましたが、30年後にこうして、文学という専門分野をわきにおいて幅の広い「日本研究」について語るようになるとは、夢にも思いませんでした。

私の視野を広げたのは、IUCでの仕事です。その仕事のおかげで、人文科学のみならず社会科学の分野にも関心を持つようになり、両方を括る日本研究の推移について考えたりするようになりました。若い頃は社会科学、特に政治学の日本研究者とは縁が遠いように感じましたが、IUCのおかげでそのような人たちとも有意義な交流ができて、専門が異なっていても日本語そのものに対する敬意の気持ちには変わりはない、ということがよくわかりました。そしてどの分野の日本研究者でもかなりストーリーが好きらしく、私にいろいろな面白いストーリーを話してくれます。それにならって、今日はIUCのさまざまなストーリーをはなしながら皆様と一緒に日本研究について考えたいと存じます。

IUCとは

さて、IUCとは何かについて、まず説明しておきましょう。IUCはInter-University Center for Japanese Language Studiesの略名です。Inter-Universityというのは、一つの大学だけが所有するのではなく、複数の大学が連合して運営する、ということを指します。したがって日本語名は「アメリカ∙カナダ大学連合日本研究センター」です。略して「日本研究センター」と言われることがよくあります。加盟大学はご覧の通り、日本研究を盛んに推進している北米の主要大学ばかりです。

名称はともかく、IUCは世界でも稀な上級日本語教育機関なのです。主に北米の大学院生あるいは日本関係のキャリアを目指す大学卒業者を対象に、上級日本語の集中教育を行っています。さらに詳しく言えば、IUCの大きな特徴は、専門別の日本語の授業を提供していることです。選択コースには文学、歴史、政治、文化人類学、日本学概論、法律、ビジネスなどで、教育方針はご覧の通りです。

IUCの原点

専門家にも通じる日本語、ということに先生がたが力を入れていることからもお分かりいただけるように、IUCは北米の日本研究と切り離せない関係にあります。その元を問えば、実は1961年(昭和36年)に、近くの和敬塾に植えられたセコイアの木にたどり着きます。

ちょっと面白いストーリーなので余談ながらお聞きください。

1961年4月、サンフランシスコから17人のスタンフォード大学の学生が日本航空803便に乗り、ホノルル経由で東京へ向かいました。この写真に写っているのは、IUCの前身である「スタンフォード大学日本研究センター」の最初の学生たちです。つまり元は大学連合の形ではなく、スタンフォード大学だけの日本研究センターでした。その開校式は同年4月12日に和敬塾で行われ、朝日新聞に取り上げられました。

ご覧の記事に書かれているように、当センターの特徴は、学部の学生だけでなく、大学院生も受け入れて高度な研究を進めさせるところにありました。そうして、「太平洋の橋」として大きな役割を果たすと期待されました。

当センターの創始者は、教育、外交、政治、法律やビジネスなどの諸分野において日米の交流を深めていくことができるように、高度な日本語能力と日本の文化に深い造詣を併せ持つ若者を育成することを使命としていました。そして、日米友好を培う精神のもとに創設された当センターは、和敬塾ばかりでなく、早稲田大学を含めた日本の一流大学の協力も得てスタートを切ったのです。

これは開校式のプログラムです。ご覧のように、早稲田大学の著名な教授が6名、センターで教える先生として明記されています。

プログラムの中を見ますと、当時の早稲田大学の総長の演説の他に、おそらく役職の方お二人が委員会のメンバーとして明記されています。

開校式の日に、お祝いとして日本のスタンフォード大学のO Bグループが和敬塾の敷地にセコイアの苗を植えました。セコイアはスタンフォード大学のロゴマークにあるように、大学の象徴としてよく知られています。その和敬塾のセコイアの話を、当センターの2期生でソフィア大学名誉教授のケート・ナカイ先生からお聞きして、先週彼女と、ディヴィッド・ルーリー先生と一緒にそれを探しに行きましたら、立派に育っていることを自分の目で確かめることができました。

60年間も経つと、セコイアはこんなふうに聳え立ち、目を見張るものがあります。和敬塾で長年ずっと小まめにケアをして下さった方々には感服いたしました。おまけですが、これはナカイ先生がスタンフォード・センターの学生時代の写真です。

このような大胆な事業をスタンフォードだけで持続させることが難しかったためか、開校2年後には、北米の他の9大学を誘って共同運営に切り替え、名称をIUCにしました。 スタンフォードの日本研究センターがIUCの生みの親であるとすれば、早稲田大学も一種の親戚のように思えます。

IUCはどういうわけか和敬塾から離れて、東京のいろいろなところを転々とした挙句、1987年に横浜市のお誘いを受けて移転して、1991年からパシフィコ横浜の快適な施設を使わせていただいております。加盟校は10校から15校に増え、入学者数も60年代のそれよりほぼ3倍になっています。このように、あの和敬塾のセコイアのように立派に成長したとはいえ、その道筋はまったく平坦なものではありませんでした。そもそも、これだけ多くの大学のご協力と偉大な方々のご支援とご期待をいただいてスタートを切ったにもかかわらず、10年も経たないうちに早々財政難の話が持ち上がりました。当時の所長のケネス・バトラー先生が資金調達に奔走したおかげでその危機を乗り越えることができましたが、IUC役職の先輩たちによりますと、IUCは常に財政難の危機と戦いながら細々とギリギリでやってきていました。

私は2010年にIUCのエグゼクティブ・ディレクターに就任した時はこのセンターの歴史についてはあまり知りませんでした。しかし、2004年にスタンフォード大学に赴任してから、度々IUCのお世話になりました。というのは、教え子をIUCに送ると、みな必ず日本語力を数段レベルアップしてスタンフォードに帰ってきます。そのことからIUC教育の効果を自分の目で何度も確かめることができました。そうしているうちに、実はIUCは財政難で存在の危機に瀕している、という話を度々耳にするようになったのです。この貴重な教育機関がなくなったら、大学院に進学できる学生の数はどっと減るに違いない、日本文学研究の将来に大きな妨げにもなる、どうにかしてその憂うべき事態を防ぎたい。そういう気持ちから全く無経験だった資金調達にも挑戦してみようと決心して、あえてIUCエグゼクティブ・ディレクターに志願いたしました。それから早くも12年経ちますが、その間に思わぬ試練と予期せぬ収穫もたくさんありました。

IUCから見た日本研究の過去、現在そして未来

前置きが長くなりましたが、「日本研究の過去、現在そして未来」をIUCの視点から考えると、四つの項目に関心が向きます。

上の三つの項目は、実に密接に関わりあっています。たとえば、ある大学院生が先生に勧められてIUCで勉強するとします。大学院に戻り、博士課程を終えて、教鞭を取ります。今度は先生の立場にまわって教え子にIUCを勧める。教え子がIUCに行って日本語力を高めて日本に対する関心を深める。そして大学院に進学して日本研究に貢献する。こういうパターンは何度も繰り返されています。

この写真に写っているのは誰か、おわかりでしょうか。真ん中に写っているのは、日本の政治学で有名なジェラルド・カーティス先生です。右手にはジェイムス・モーリー先生で、彼は実際にカーティス先生にIUCを勧めた人です。

カーティス先生は1965年にIUCを卒業して、1968年にコロンビア大学で教鞭をとってからたくさんの教え子をまたIUCに送りました。

この写真はIUCを1975年に卒業した学生たちのクラス写真です。前列の真ん中に先ほど言及したバトラー先生がいます。そしてここに、私が古典文学を師事したハルオ・シラネ先生がいます。シラネ先生もIUCを卒業した後、1983年に博士課程を終えて、1987年にコロンビア大学で教鞭をとってからたくさんの教え子をIUCに送りました。

シラネ先生は、日本古典文学の分野で30名以上の博士を育成されて、十重田先生と協力して、日米間に日本文学研究者の緊密な繋がりを築いてきたことなど、日本研究への貢献は著しく、2ヶ月前に日本学士院の客員に選定されたばかりです。

IUCの学生はみんな学者になる訳ではありませんが、1961年から今まで、ほぼ700人の卒業生が学問研究の世界に入り、日本研究に貢献したり学生の関心を日本に引き寄せたり、次世代の学者を育てたりしています。

ですが、この三つの項目が密接に関わっていても、肝心な資金・支援がついてこないと、せっかくのいい循環を保つことができなくなったり、途切れやすくなったりします。これはIUCにとっては、最も解きにくい問題でしたが、12年前の私が若かったせいもあって、絶対に解けるはずだと固く信じて、あえてエグゼクティブ・ディレクターに志願したのです。

エグゼクティブ・ディレクターとしての苦難

実際にエグゼクティブ・ディレクターになると、最初の一年目は波乱万丈なもので、最初に起きたことは決して忘れられません。というのも、着任一日目に、最大の資金提供者から手紙で連絡が来ており、その中には、学年度の終わりまでに2百万ドルを資金調達せよ、でなければファンディングを全部カットすると書いてあったのです。まぁ、IUCは財政難に直面していることは知っていましたが、さすがにこの手紙の内容には驚かざるを得ませんでした。資金調達経験ゼロの私はすぐに動き出さなければならず、院生時代に見た日本語のたわいない夢は、とたんに米ドルや日本円を闇雲に追いかけ回すという、ハラハラするような夢に変わってしまったのです。初めて頂いた寄付は当時6歳だった我が息子からでした。晩御飯の時にその手紙の内容を聞いた彼は、躊躇もなく彼の全財産――総額5ドル――を私に寄付したのです。そして、ほぼ半年後の2011年3月10日の夕方、初めて大きめの寄付の申し出をIUCのある卒業生からいただきました。さらにその直後、私がスタンフォード大学でテニュアになったという知らせが来ました。この二つの出来事は、次のあることが起きなければ、本当にその日を素敵な日にしたはずです。さきほど2011年3月10日と申しましたが、これはカリフォルニア・タイムですね。カリフォルニアは日本より17時間おくれています。ですからその「次のあること」とは言うまでもなく、東日本大震災です。夫は私にツイッターのニュースを見せ、私たちはテレビをつけましたが、そこで大きな津波が日本の東北地方の海岸を襲うのを目にしたのです。

大震災後の数週間は、非常に苦しい日々でした。あまり寝られず、寝る時も携帯電話を枕元に置くようにしていました。また、横浜IUCの学生、教員、そしてスタッフの皆さんの状況を把握するために、余震が起きる毎にアラームが鳴るアプリもダウンロードしました。そのアプリがひっきりなしに鳴るという事態が何週間も続きました。福島で発生した災害により、その学年度の残りの授業をセンターで続けるのは不可能になりました。ただ幸いなことに、非常に熱心な先生がたは即時に対応して、授業をオンラインに切り替えることで、全ての受講生がコースを修了できるようになりました。

同年に、IUCは夏期プログラムを対面授業で再開させることができましたが、困難な状況はそれだけではありませんでした。同年10月のドル・円の為替レートは76円という歴史的な円高を記録しました。IUCはドルで授業料を得て、円で横浜の教員とスタッフに支給するので、とても心配しました。同時に、長年受講生に対して奨学金を提供していた米国教育省から、今学年からは支援しないとの連絡が来ました。当時IUCはどれだけ損失したかにつきまして、正直、皆さまにお話しする気が起こりません。いや、むしろあの時期を振り返ることは耐えられません。ただ申し上げられるのは、3.11(さんてんいちいち)直後の寝られない日々にとって代わって、今度は目覚めたくない日々がしばらく続くことになった、ということです。

IUCの新たなビジネスモデルと協力者たち

その後、ようやくこれらの打撃から立ち直ることができ、問題解決に専念することにしました。そして、今度は角度を変えて、IUCに新たなビジネスモデルを導入することに着手し始めたのです。IUCの従来の資金調達は運営費の支援に焦点を絞っていました。しかし、それはすでに行き詰まりを来していましたので、同じことを繰り返してもうまくいくとは思えなかったのです。そこで新しい試みとして、IUCの運営ではなく、その学生のニーズに焦点を移してみました。そして授業料の値上げをして、学生たちの奨学金の確保に力を注ぎました。この試みは多くの方々の共感を呼び、寄贈者たちから寛大なサポートを得ることができるようになっていきました。そのお陰で、IUCは生き残れただけでなく、成長することもできました。換言すれば、資金調達の焦点を機関の支援から学生の支援に移すことが、IUCを財政難から救う大切な鍵となったのです。

とはいえ、鍵は見つけても開けるドアがなければ意味がありません。大学連合によって創設されたIUCの弱点は、その加盟校の名声を享受できないことです。スタンフォード大学やコロンビア大学の名を知る人はたくさんいるでしょう。しかしIUCを知る人はあまりいません。そこで私がひとまずトントンと軽く叩いてみた「ドア」は、IUCの卒業生のそれでした。IUCに最も詳しい人たちだからです。大変嬉しかったことに、ほとんどの卒業生はドアを快くあけてくださり、IUCを支えるのにどうしたら良いか、一緒に考えてくださいました。

研究機関や教育機関というものは必ずしも永遠に生き残るわけではありません。IUCも実は危ない橋を渡ってきました。英語では「It takes a village to raise a child」という表現がありますが、訳すと「1人の子どもを育てるには村全体の人の力が必要だ」という意味になります。「何かを成し遂げるにはいろんな人の協力が必要だ」という示唆は、IUCにピッタリ当てはまります。

幸いなことに、IUCが最大の危機に瀕している時期に、たいへん力になる方々が手を差し伸べてくださいました。ちょうど50周年を控えている時期に重なっていて、積極的に寄付集めのキャンペーンを進めるために、OB/OGと、IUCにご好意を示すよき理解者が、50周年委員会に加わってくださいました。

委員会をアメリカ側から指導して下さったのは、IUCよりはるかに名声の高いOBのジェラルド・カーティス先生です。ご存じのとおり、カーティス先生はコロンビア大学の政治学の教授で、北米の日本政治学の第一人者でいらっしゃいます。2004年に、日米相互の理解の促進への多大な貢献が、旭日重光章を受賞される由縁となり、IUCのOBの中でも屈指の学者です。当時は現役の教授で大変お忙しいにも関わらず、いつも私に助言と励ましの言葉を惜しみなくくださったばかりでなく、IUC50周年キャンペーンのために資金調達にも奔走して、大きな支えとなってくださいました。

東京の方からはディヴィド・スナイダーさんが指導してくださり、シンプソン・サッチャー・アンド・バートレット外国法事務弁護士事務所の東京オフィスの代表を務めながらも、ご寄付もお時間も寛大にIUCに注いでくださいました。

<>委員会には共同議長の他に、卒業生13人が参加してくださいました。卒業生のサポートを得ることが第一の目的ではありましたが、卒業生ではないがIUCの使命に感銘を覚える方のご支援も欠かせません。そういう面でもIUCは大変恵まれまして、特命アドバイザーとして3名のVIPがいらっしゃいましたし、委員として積極的に参加して下さったこのお二人にも助けられました。

Glen Fukushimaさんは、早くからIUCのことを友人に紹介されていて、レベルの高い日本語教育がもたらす効果に対して、いつもよく理解してくださり、IUCの重要性をいろいろな方によく語ってくださいます。そして今は早稲田大学の特命教授として東京にいらっしゃるので、今日はズームの方でお聞きになっているかと存じます。(グレンさん、いつもありがとうございます。)Arthur MitchellさんもIUCのよき理解者で、息子さんがIUCの教育を受けてのちマカレスタ大学で日本文学の助教授となったのもご縁になりました。

この委員会は実に大切な役割を果たしました。委員の方々が、同窓生や知り合いに寄付を促し、IUCの使命に関心を抱きそうな政府の高官、財団法人や大手企業の役員などにIUCを紹介してくださり、支援の輪を広げるのに欠かせないご活躍をなさいました。

そしてもう一つの大切なグループについて簡潔に言及させていただきます。それはIUC卒業生協会です。

これを3人の卒業生が自ら進んで作ってくださいました。当初はその目的はIUCのすべての卒業生とうまく連絡が取れるように、卒業生データベースを全面的に更新することでした。これは大変時間のかかる作業で、センターのスタッフの手がなかなか回らないものでした。この3人が積極的に卒業生一人一人の居場所を確認したり、探したりしたお陰で、センターは9割以上の卒業生と連絡が取れるようになりました。これも大きな貢献だと言わなければなりません。

このように、IUCは多くの方々に色々な形で助けられて、資金調達の未経験の私をも優しく育ててくれました。

2012年秋のIUCニュースレターを振り返ってみると、その支援の輪の広がり方を確かめることができます。これはIUC50周年キャンペーンにご寄付された方々の中間報告のようなものです。

少しお話を前に戻すと、波乱の最も激しい頃、もう一つ、決して忘れられないことがあったのです。

それは2011年12月のある日、IUCのOBでUCLAテラサキ日本研究センターの元所長でもあるフレッド・ノートヘルファー先生と奥様のAnnさんから突然、多大な寄付が送られてきました。それは本当にIUCの命綱となりました。ここ10年、ノートヘルファーご夫婦のご支援をいただいた学生の数はすでに80人にのぼります。学者の熱意というものには感服させられます。

多くの支援者

さて、開校50年を迎えた2013年頃には、IUCは最悪の嵐を乗り越えました。

これは現在のIUCの奨学金一覧ですが、緑色になっているのはいずれも50周年以前から長年、奨学金を提供してくださる支援者、いわば「旧友」です。赤いのは50周年キャンペーンを契機に新しく奨学金を提供してくださるようになった支援者です。そして紫色になっているのは、2012年からIUC奨学金の大黒柱になって下さった支援者です。現在ではみんなが旧友となったおかげで、たくさんの学生がIUCに入学できるようになりました。ここ10年で、夏期コースを除いたIUCの入学者数の合計は527人で、センターにとっては歴史的に高い数字です。

2012年から現在まで日本財団フェローとして165人の学生がIUCを卒業しています。今は毎年20名の、主に博士課程の大学院生を奨学金付きIUC日本財団フェローに選定し、専門性の強い日本語の勉強に専念させていて、日本研究に大きく貢献しているプログラムです。(キャンベル先生はよくご存知のプログラムで、去年日本財団のフェローにお話しをして下さったのです。)

また、2012年から現在まで、153人の学生が渡邉利三フェローとしてIUCに入学できました。この奨学金プログラムも今は毎年20名の学生を支援していて、日本研究者の卵や将来の日本通を育てるのに重要な役割を果たしています。

この二つの貴重な奨学金プログラムを提供してくださった日本財団の笹川陽平会長様と渡辺利三様に対して、感謝の意を述べさせていただきたいと思います。

皆様のご協力のおかげで来年、IUCは還暦を迎えます。50周年の時は、卒業生をはじめ、どれだけ多くの方々がIUCでしか得られない日本語教育を大切に思って支えて下さっているかがよくわかり、勇気づけられました。還暦を迎える今、IUCの原点と現在を熟考した上で、日本研究の明るい未来をもたらすためにどうしたらいいかを一緒に考えましょう。

IUCを巣立った「先駆者」たち

IUCの原点を考えますと、「先駆者」という言葉が頭に浮かびます。初期の頃、すなわち60年代において、スタンフォード・センターとIUCは年間約20人というペースで学生を受け入れていました。最初の10年間で、人類学、芸術、歴史、言語学、文学、政治学、宗教学、社会学などのコア分野全般に渡って、IUCから約100人の学者が生まれました。そしてみな、数え切れないほどの著作や論文を書き、ジャーナルや研究センターを作り、何千人もの学生に教え、ゼロから研究分野を築くのに力を尽くしました。その業績は広く認められています。例えば、60年代にセンターを卒業した人の中で、10人が日米の相互理解の深化に多大な貢献をしたため、日本政府から旭日章を授与されました。

これはちょっと驚きに値する割合ですね。スタンフォードセンターやIUCで学んだことを最大限に活かした、非常に才能のある人たちでした。

このリストからも垣間見えるように、スタンフォード・センターもIUCもその当初から才能のある女性たちを日本研究に惹きつけるのにも役に立ちました。ナカイ先生はもちろんその一人です。一期生の中に、Ann Lardnerという方もいて、今では近代日本史のAnn Waswo先生として知られています。淋しいことにWaswo先生は2年前に亡くなられましたが、私にスタンフォード・センターの思い出をメールで送って下さったことがあります。

それによると、クラスの学生たちと一緒に招待されて池田勇人首相の官邸に行ったことがあったそうです。彼女はそこで、池田首相に「大正デモクラシーについてどう思うか」と尋ねてみました。それはライシャワー大使が戦後の憲法秩序の戦前のルーツを強調したときによく言及したことです。すると、池田首相は「知らない」と答え、そのことを、朝日新聞の記者は「首相、米女子学生に教えられ」と題した記事にしました。ですが、この米女子学生に大切なものを教えられたのは、実際、池田首相ばかりではなかったと言えます。

IUCの先駆的な女性と言えば、長年副所長として何百人もの学生にインスピレーションを与えた高木きよ子先生の名も挙げなければなりません。高木先生は、20年間副所長を務めた後、哲学の教授としてお茶ノ水女子大学に移られ、73歳の高齢で東京大学において宗教学の博士号を取得されました。2011年に93歳で亡くなった際は、多くの卒業生から賛辞がIUCに寄せられました。

初期の頃ばかりではなく、どの時代のIUC卒業生に心を巡らせても必ず新しい道を切り開く先駆者が現れます。

例えば、このクラス写真の中にも、先駆者のたまごがいます。それは他でもなく、ロバート・キャンベル先生です。キャンベル先生の名を知らない日本人は少なく、よくIUCを説明するときに、キャンベル先生がそこで日本語を勉強なさったと言えば、みんなが「おお」と言ってくださいますので、大いに助かっています。キャンベル先生、ありがとう!

他にもIUC卒業生の先駆性を示す例は数々ありますが、とりあえず強調しておきたいのは、将来どのような道を切り拓いてくれるか予想できないからこそ、多様で多才な学生をIUCに引き寄せて高い日本語力を付けさせる価値がある、ということです。

日本研究とIUCの将来

先ほど申し上げたように、IUCは現在、歴史的に多い入学者に恵まれています。このことは、奨学金の重要性を証拠立てている上に、学生の日本に対する関心が深く根付いていることをも示しています。とは言っても、ここ数十年、日本研究の有様は大きく変わりました。まずは冷戦の終結に伴って、高度な日本語能力と日本の文化に深い造詣を併せ持つ北米の若者を育成しようという事業に、投資する意欲が弱まりました。その上に、日本を専門とする社会科学者――特に政治学者――が少なくなり、有名な学者が引退しても大学側では後継を置かなくてもいいという考えがはびこってきました。人文学においても日本の古代史と中世史に取り組む教員の数が急激に減少しました。これはまことに嘆かわしい損失であり、日本研究の他の分野への警告として理解しなければなりません。

とはいえ、心配の曇りの中には希望の光も見えます。日本の近代史、そして古典と近現代文学などの多くの研究者たちは若くて、すぐに引退する心配はありません。そして学生たちに良い刺激を与えています。その証拠に、毎年IUCに入学する学生の半分くらいは文学と歴史を専攻にしています。さらに、数多くの学生は日本のポプカルチャー、特にマンガ、アニメ、ゲーム文化にも興味を持っており、また日本に対する興味を、様々な新しい分野と組み合わせています。例えばデザイン、障害研究、災害管理、環境科学、食文化研究、イントラ・アジア研究、メディア研究や公衆衛生などが挙げられます。これらの分野の中では、日本に関する専門知識を持つ研究者が北米では1人か2人しかいない場合が多いのですが、どの分野においても将来の日本関連の専門家になる卵が、IUCの学生の中にいるように思われます。

ここ数年のIUCの学生データを見ますと、学生の関心の変化が垣間見えます。人文学の分野を専攻とする、あるいは専攻にしたい学生の数が、圧倒的に多いところから明らかに減ってきて、最近は特にInter-disciplinary――つまり二つ以上の学問分野にまたがる——といった研究に関心を持つ学生の数が増えています。これは示唆に富んだデータであると私には思えます。

多様な学生を日本研究に引き付けるためにクリエイティブな方法を見つけることは、日本研究の全体的な成長にとってますます重要になっていくと考えています。その一環として、従来の専門分野の枠にこだわらず、柔軟に学生の関心を呼び起こすような授業を構成することが有効ではないかと思われます。その一例を紹介して今日のお話をまとめさせていただきます。

スタンフォード大学の同僚の中で、シラネ先生に師事したIUCの卒業生アリエル・スティラマン先生がいます。彼は最近、”Japanese Functional Objects”「日本の機能オブジェクト」という、物理学者や機械工学者と共同で教える授業を試みました。そこで学生は、日本の様々な道具の使い方や文化的に重要な物(例えば床の間に置く花瓶など)の作り方や使い道について学んだり、美と実用性との曖昧な境界線について考えたり、また自分の手で物作りを試みたりするのです。内容が新鮮なこの授業は、美術史から工学まで、様々な専攻を持つ学生に好評で、スタンフォード・レポートという大学新聞にも取り上げられました。今日いらっしゃる方々の間にも新しいアイデアはたくさんあると存じますので、聞かせていただけたら幸いです。今日はこれでお話をまとめさせていただきます。皆様、ご清聴ありがとうございました。

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